ESSAYS

08|2019年7月28日の夕やけ―わかち合うこと

世界について

7月も最後の日。妻の入院先で。病状説明があるとのことで、わたしと妻の妹は別室に呼ばれていた…

妻がいなくなると告げられた。その病気は治らないらしい。長くて2年、普通は数か月なのだそうだ。

まったく不意のことで、はじめの数分だか、数十分だかは何も起こらなかった…やがて胃の腑から空気の塊が付き上げてきて、思わずわたしはテーブルに突っ伏した。

妻がいなくなる…よく言われるように世界は灰色になってしまうのだろうか…

部屋を出て、病院の外の道路や車の行き来や木や雲を眺めた。それらは強い陽射しに射抜かれていた。

…色はついていた。それより…

道路が道路ではなかった。車も車ではなく、木や雲ももはや木や雲ではなかった。

…これは何なのか…

そう…あの数分だか数十分だかの間に、世界は妻のいる世界から妻のいない世界へと変わっていたのだ…道路は妻のいない世界の道路であり、車や木や雲も妻のいない世界のものなのだ…

はじめて目にする、そのよそよそしい世界で…道路や車や木や雲を目の前にして、わたしはいかなる述語も使えなかった…

おそろしかった…述語をなくした世界で、おそろしさにわたしは立ちすくんでいた…

述語について

妻はいろいろなことができなくなっていった。

はじめはうまくしゃべれなくなった。

箸が使えなくなった。

そして歩けなくなった…

入院したその日から食事は流動食になり、退院するときにはベッドの上の生活になっていた・・・もはや話すことも着替えることもできなくなっていた…

妻にまつわるあらゆる述語が消えていった…喋る妻…食べる妻…歩く妻…カバンが大好きで外出好きの妻はいなくなった…

…すべての述語がなくなった後、ひとには何が残るのだろう…

水分さえも抜けた、あらゆる役に立つものから遠ざかったものだけが、そこには残るのだろうか…

…突然ある感情が付き上げてきた…不思議なことに、その感情ははっきりとした言葉の形を取っていた。わたしにはそれがわたしの個人的なもの、わたしだけが感じられるもののように思え、わたしはその言葉を自分の懐に大事に抱え、そしてあたためていた…

ところが8月も終わりに差し掛かったある日、診療で訪れたF先生が妻をみた後、唐突にこう言った…まったく何の脈絡もなく、その言葉は発せられた…

「ミキオさん…いとおしくないですか…」

「…」
 
わたしは心底ぎくりとした。なぜなら、わたしの懐のうちにあったのはまさに「いとおしい」という言葉だったのだから…

大きな体躯のF先生はわずかに頬を緩めるとこう言った。

「みなさん、そう言われますよ」

すべての述語がなくなった後に…そこになおもあるものに…何らかの感情を抱くこと…「いとおしさ」を感じること…そんなことができるのだろうか…

そして、そんなつじつまのあわない感覚を「みなさん」が持っているらしい…

しばらくわたしはそのことを胸の内で味わってみた…

「みんなと一緒」が嫌いなわたしなのだが…悔しいことに悔しくはなかった。

わかち合うこと

妻がまだ入院する前…妻もわたしも妻の体の動きが鈍くなってきているのは心労のせいだと思っていた。それで心労を克服すべく、妻と私はウォーキングをすることにした。

7月28日…夏であるから、ウォーキングは夕方となる。二人で引地川沿いの遊歩道を歩いた…妻は思うように体が動かないようで、普通は交互に出る手と足が、同時に同じ側に出てしまったりして、かなり苦労して歩いていた。

…日中の暑さも和らいで、川の面を涼しい風が渡ってきた。わたしは妻の前方2,3メートルの所を先に立って歩いていた。

…ふと妻が付いて来ていないことに気が付いてわたしは振り返った…妻は立ち止まって前方を見つめている…私が近づくと、妻は前方を見つめたままこういった。

「…夕焼け…」

見ると、確かに妻の前方、引地川の向こうの空に雲がいくつか浮かんでおり、うっすらとピンクに染まっていた…

そのころには妻は歩くだけでなく、喋るのもやっとという状態だった…それでも妻ははたから見ても分かるほど相当の無理をしてわたしに伝えたのだ…

…夕焼け…

二日後に妻は入院し、1年9か月後に帰らぬ人となった。この間、このできごとは繰り返しわたしの中に浮かんできては、二つのことをわたしに問うている。おそらくわたしは死ぬまでそれを問うことになるだろう。

ひとつめ。得体のしれないなにかが自分の中で進行している…身体はどんどん不自由になる…そんなおそろしい事態の間隙を突いて、なお「うつくしい」という感情は人の中に入っていけるものなのだろうか…

ふたつめ。「うつくしい」という感覚が起こったことを、なぜ妻はわたしに伝える必要があったのか。あらゆる困難を突いて奇跡のように入ってきたこの感覚を、なぜ妻は一人で味わわなかったのだろうか…わかち合うこととは何なのか…