ESSAYS

02|愛おしい水路―みること

きえていく述語

…それは相模川に沿った低地を南北に走る農業用水路…その水路をまたいだ小さな橋から見た風景である。農業用であるから、ある時期には水がこんこんと湧き、近くには似たような橋がいくつもある。何の変哲もない橋である。川岸には排水のためのパイプが突き出し、川底には岸を固めていたコンクリート片や石ころが透けて見える。水面にはそのあたりに林立する鉄塔が映っている。

そしてここが大事なのだが、それらは「田に水を引くため」の水路、その水路をまたいで「人を運ぶため」の道、「護岸のため」のコンクリート、「排水のため」のパイプ、「送電のため」の鉄塔なのである。それらにはわたしの世界を成り立たせている通りの良い「述語」が固く結びつけられており、水面に映っている雲でさえも、しごと帰りには雨を降らせ、わたしに「合羽を着させる」雲かもしれないのだ…

それらの述語があまりにも通りの良いものであるため、わたしは毎日じつにすんなりとその風景とすれ違っている。朝にはこれから始まる一日のことを考え、夕方には家で整える食事のことを考えながら…

ところが、あるとき、あるタイミングで、鉄塔の冷たさや石の硬さ、空の青さや雲の重さといった、その場に結びつけられていた述語が、消えていくことがある…空や鉄塔は水に映され、その波紋にゆがめられる…川底の石は水の厚みにその影を薄められ、ぼかされる。そしてその水自体も風や重力によってそのかたちを変えられる…その場を叙述する言葉がゼロに近づいていき、その場の意味がどんどん曖昧になっていく…

そこに現れるのは何か?…通りの良い述語の隙間から垣間見えるその「中身」は何なのか?…それこそが、この風景の本来のあり方であり、「ものの本来のあり方」でもあると思うのだが…それは…

わたしはこの水路わきの風景に臨んで、あたかもこの風景に人格が宿り、深く、ゆっくりと呼吸をしながらたたずんでいるというようなイメージを持った。風景の周りはやはり無数の述語で覆われているのだが、それらも呼吸につれて外へ向かって拡散したり、内へ向かって凝縮したりしている。

そして…これもわたしのイメージでしかないのだが、この風景は鼻で呼吸しているのだ。その口は閉じられ、奥歯は軽く噛み締められている。ゆえに、その口は「m」、あるいは「n」というかたちをしている。そう…まさに「む」なのである。そこでは、いま何かが言われようとしているところであり、何かが言われてしまったところでもある。ものから述語が無くなりつつある状態であり、同時に、述語が付け加えられつつある状態でもある。

「む」とはこうした途轍もないエネルギーを孕んだ状態のことであり、わたしが出会ったこの水面はそうしたエネルギーをのんでたたずんでいるのである。そのありようは神々しく、畏れ多く、そして愛おしい。

む、いる、みる

じつは中身と言っているが、もしかしたら、中身は「ない」のかもしれないとわたしは思う。なぜなら、わたしには中身があることが決して見える訳ではなく、「ある」ことがうかがえるだけだからだ。どういうことか…

繰り返すが、その風景は無数の述語に覆われていて、それは消え去るかと思うと現れ、固まったかと思うと拡散していくのだ。ここにはなにかがある…

無数の述語をその場に引き留めておくからには、それだけの重さ、引力を持ったものがそこにはある。そして、それは見えない。もっとも、仮にそれが見えるのであれば、ただちにそれは叙述の対象となり、周りを覆っている述語の層にまたひとつ厚みを加えるだけかもしれないのだが…

わたしにできるのは、収縮―弛緩を繰り返す述語の運動に付き添うこと、すなわち、そこに「いる」ことである。あらゆる述語が消えそうになって、そして再び現れるところ、神々しく、畏れ多く、愛おしいそのありようを、あたかも鑑賞するかのように「眺める」のではなく、そこに「いること」である。それは「みる」ことになる。

「みる」ことはしたがって、視覚に限定されない。自らの身体、その感覚のすべてで行うことである。わたしにとっての「描く」、そして「はる」こと、そしてこの風景について他人(ひと)に「伝えていく」こともまた「みる」ことなのであり、この風景の本来のありようへのアプローチなのである。

よってわたしは、風景が「通りの良い」見え方へと凝縮していくように身体を用い、一方で「通りの良くない」見え方へと拡散していくように感覚を研ぎ澄ませる。わたしがブラッシュを画面に振うことが…何枚かの紙片を貼り付けることが…くだんの水路を覆っている「通りの良い」述語にはたらきかけ、水路が水路として、あるいは水路以外の何物かとしてわれわれの前に立ち現れること、そのものとなるのだ。