ESSAYS
07|1991年ケルン―すぐ目の前に
A・P。南仏、ニース近郊にあるトレット・シュル・ループという小さな街の出身である。エクス・アン・プロヴァンス大学で文化人類学を学んでいた彼女は、進級にあたってうっかり登録をしそこねて、一年を棒に振ることになってしまった。無聊を慰めるため、ひょんなことで知り合ったハイデルベルグ大学の学生を頼ってドイツへやって来た。初めて彼女に会ったのは、湾岸戦争のあった1991年、5月のことだった。初夏の陽射しを受けて、ブロンドの髪が真っ白に輝いていた。小柄な彼女は10代に見えたが、実際は21歳であった。
私は前々年に大学院の受験に失敗した無職の日本人。ドイツの美術大学で1年間勉強したいと、何人かの教授に手紙を出したが、返事すらなかなかもらえず、唯一返事をくれたR教授に会うつもりで(会ってくれるかどうか分からなかったが)ドイツにやってきた。25歳になっていた。私とAは、ハイデルベルクのドイツ語学校で同じクラスになったのだった。
ドイツの語学学校はたいてい午前中で授業が終わってしまう。授業が終わると、大してすることのない彼女は、同じく何もすることのない私とハイデルベルグ大学の学生食堂へ行くのが常であった。そこでは一食2~3マルクで昼食にありつけるのであった。
フランス人皆がそうするかどうか分からないが、食事が2マルクか3マルクかで真剣に悩んでいるにも拘らず、彼女は食後には必ずカフェに行こうと私を誘い、一杯1マルクもするコーヒーを飲むのであった。
カフェでは議論になる。Aは議論が好きであった。政治の話から文学、心理、性の問題、そして驚いたことに美術の話まで論じだすと止まらないのであった。私も暇なことだし、元来理屈っぽい話が好きなので、午後遅くまで話に付き合った。そのうちウィークデイの午後だけでは足りず、土曜や日曜にも約束をしておしゃべりをするようになった。待ち合わせはたいていハイデルベルグの中央駅だった。10時ごろ落ち合うと、そのまま大勢の人が日光浴しているネッカー河畔に下りて行って読書をしたり、鉄道に乗ってマンハイムまで行き、市立美術館のボイスのコレクションを見たりした。
彼女がヨーゼフ・ボイスまで知っていたのには訳があった。彼女の父親は建築家であった。大の日本びいきで、彼女が電話で(私から聞いた)ミシマやカワバタの話をすると、電話口の向こうで喜んでくれた。
楽しかった…仕事も、学業も、お金のことも、将来のこともどうでもよかった。
瞬く間に一ヶ月が過ぎて、私はケルンの語学学校へ移ることになった。これは日本を出るときから決めてあったことで、そこでドイツ語の仕上げをした後、ケルンにいるR教授を訪ねる積もりであった。
Aがハイデルベルグ中央駅まで見送りに来てくれた。小柄ではあったが、ブロンドの陰になった眉は妖艶な弧を描き、灰色の虹彩が透き通って瞳孔がキョロキョロと動いていた。いまさらだが「素敵だな…」と私は思った。電車がハイデルベルグを出ると、私はAのこと以外は考えられなくなっていた。
その日も、次の日もAのことを思うと悲しかった。ケルンではライン川左岸にあるユースホステルに二泊した。ユースホステルからライン河畔に下りていくと、日本ではあまり見られない光景だが、夕陽が沈んでいくのをひたすら眺めている人たちがいる。私も右手に大聖堂、正面に夕陽を見ながらAのことを考えた。
ヨーロッパには梅雨はないはずであったが、6月に入るとケルンでは毎日のように雨が降った。ケルンのそのドイツ語学校はアフリカや中国、フィンランドからの留学生でいっぱいであった。フランス語や中国語が飛び交う中で私はひたすら内向していき、Aのことばかりを考えていた。
ケルンは典型的なドイツの都会で、環状道路に沿ってガラス張りのビルが立ち並ぶ一方、古い教会やローマ時代の遺跡があり、そこかしこには「Ice」の幟のある小洒落たカフェがたくさんあった。だが、そのときの私にはケルンの喧騒が煩わしく、下宿の近くにある、モグラが出るような野っ原を歩き回りながらひたすら物思いにふけった。6月も終わりになる頃、私はドイツで聴講生として1年間過ごすという考えを放棄した。R教授にも結局会いに行かなかった。
思えば、勘のよい人ならとっくに気づいているはずのことであった。Rの教室は常に満員で、ましてや聴講生として入れる可能性はないに等しい。そのことは、すでにRの手紙に書いてあったことだった。それに私はなぜドイツに行くのだろう…なるほど、私はボイスに心酔していた。だが、ボイスはすでに死んでしまっていたし、ドイツに来てみれば、ボイスの作品は、やはりドイツでもユニークなものであり、ドイツに「ボイス」がたくさんいるはずはないのであった。
そもそも問題はとてもシンプルなのだった。「私」は何を作りたいのだろう?そして「私」はそれをどう思うのか?他人はどう見るのか?そうした一切は、ずっと目の前にぶら下がっていたのに、ずっと見ないふりをしていたのだった。本来なら大学院の受験に失敗した1989年、もっといえば美術を志した1981年に気づいておかなければならないことだった。散々見当違いなところを歩き回った挙句、Aのことを考え、強い感情に揺さぶりを掛けられて、ようやくそのものの存在を認めたのだった。
2年間、アルバイトをしながら言葉を学び、小金を貯め、ドイツまでやってきた。親切なR教授は、ひょっとしたら私に会ってくれたかもしれない…私の作品集を見てなにがしかの言葉を掛けてくれたかもしれない…また、運よく聴講生として1年間ドイツで作品が作れることになったかもしれなかった…でも、問題に気づいてしまった以上、私は日本に帰り、無職の身へ、そして画用紙の前で線の一本も引けないところへ戻ることにしたのである。これは私らしいといえば、私らしい選択であった。
今でも私は1枚の絵を描く中で同じことを繰り返している。絵がほぼ出来上がったところで突然、描かなければならないことは別のところ(でもすぐそこ)にあったことに気づくのである…自分は今まで見当違いのところを徘徊していた…