ESSAYS
03|デカルコマニー―わたしが頼みとするもの
描けば描くほど悪くなる…か?
「作品の鮮度」という言い方をしていたのはわたしに美術を教えてくれたSさんである。なにかしたい…そう感じたならば、その感じが鮮やかなうちに、そのやりたいところへまっすぐに進んでいって一気にやり遂げる…そうしてやりきった表現は新鮮なだけではなく爽やかだし、美術の表現として「良い」とされる要素のひとつなのである。
さて、わたしが扱うのは「今目の前に見えているものが、あるとき、何かのきっかけで揺さぶりをかけられるさま」なのであって、この今目の前に見えているものを成り立たせているのが、「良い」という判断の根拠となっている「ものの見方」や「捉え方」なのである。したがって、わたしは、今いるところで何気なく発せられる「良い」には絶えず疑問を投げかけ、Noと言い続けなければならないのである。
とはいえ、この「絶えず疑問を投げかけ、Noと言い続ける」ことは表現をこねくり回し、撫で回すことになり、表現を生ぬるいものにすることでもある。これは、現代の感覚が深いところまで浸みている身としてはつらいことである…
だが、それを自覚した上であえて言うならば、この生ぬるさは果たして「悪い」ことなのか?時と場所が変われば、案外「良い」ものに転じるかも知れないのである。「この生ぬるさはいいねえ…」という言葉が、いつか画の前で交わされるときが来ないとも限らないではないか…
はっきりしないところに立つこと
ふたたびSさんの話をする。Sさんは、二言目には「はっきりさせなさいよ」と言う人であった。「はっきり」させるのは「どうしたいのか」であって、「どうしたいのか」が曖昧だと表現は弱くなる。Sさんはいつでも強い表現を求めるひとであった。わたしも美術をやる以上、強い表現をしたいと思い、そのためにはどうしたいのかをはっきりさせることだと自分に言い聞かせてやってきた…
だが、あるときからわたしは自分がはっきりしたところには到底行き着かないのではないかと思い始めた。その思いは徐々にわたしのなかで大きくなっていき、今では開き直って、「どうしたいのか、はっきりしないこと」を「はっきりと」見つめ、そこに立って作品をつくるしかないのではないかと思い始めた。
どういうことか…ある画を「どう描くか」は、自分が「どう描いてきたか」、もっと言うと自分も含めて今まで画が人に「どう描かれてきたか」と関わっている。つまりあるものの見方なり捉え方に拠っているのであって、それを肯定するにせよ、否定するにせよ、なにをどうしたいのかをはっきりと言い表せるのは、あるものの見方なり捉え方の中にいてこそのことなのである。
さて、今、目の前でわたしに見えているものが、あるものに揺さぶられて、別な感じを垣間見せるのは、この「あるもの」が、わたしのものの見方、捉え方の外からやってくるからである。つまり、わたしが今まで拠ってきた世界観のそとにあるからなのである。
「今、目の前でわたしに見えているものが、あるものに揺さぶられて、別な感じを垣間見せる」ことをわたしが扱っていく以上、「はっきりと言い表す」ことは、およそできないことなのである。
偶然こそが頼むに足る唯一のものなのではないか
パレット上に絞り出され、塗り広げられた画具に紙を押し付け、思いがけない画具の表情に出会う…デカルコマニーというこの技法で無数の紙片を作り、貼り合わせて作品にし始めたのは、思えば下世話な理由からだった。わたしは「なにをしたら良いのか」分からなかったのである。とにかく何か形になるものが必要で、絵の具を紙に写し取るだけならなんとかなりそうであった…
そうした後ろめたい気持ちを抱えながらも、この技法を細々と続けてきて、ある時気づいたことがある。それは、「偶然こそが、わたしが頼むに足る唯一のものなのではないか」ということである。
先にも述べたが、描くということは、「今まで自分がどう描いてきたか」、そして自分も含めて「ひとがどう描いてきたか」ということに長い時間付き合うことである。それは、とりもなおさず、いま自分が拠っている「ものの見方」「捉え方」と付き合うということなのであって、それにまともに向き合い、疑問符を投げかけ続けるということは、取っ掛かりを失うこと、表面を撫で回すだけということになり、表現は同じところをグルグルと回ることになる。つまり、表現は「生ぬるく」なりやすくなるのである。
偶然というものは、外からやってきて、この単調な繰り返しに「活」を入れる。表現を蘇生させる上でなくてはならないものなのである。