ESSAYS
01|不思議なまど―世界の別のあり方
しみからものへ
レオナルド・ダ・ヴィンチは手記の中で彼の絵画論について次のような話をしている。
…壁の染み、石ころの混じった漆喰のなかにわれわれは風景を、動物や戦士を、人の顔を見ることができる。われわれはそれを見事で完全な形へと還元させることができるであろう。あたかもわれわれが鐘の音の中に無数の名前や言葉を聞くことができるように…
レオナルドのこの話はじつに示唆に富んでいる。われわれの身の回りにあるのはじつは無数の染みなのであって、それらをものへと取りまとめているのはわれわれ自身なのである。そしてわれわれはそれをどのようにも取りまとめることができる。レオナルドはこの働きを還元と呼んだ。
この働きによって、ものはさらに相互に関係づけられ、ついにはわれわれを取り巻く世界へと組み上げられるだろう。この働きはあまりにも強く、また多くの人がこのように考えるため、われわれはわれわれを取り巻くこの世界を実在するものとして、ごく当たり前に受け入れているのだ。
だが、われわれはじつはそれが見せかけのものだと知っている。世界の別のあり方がここ以外のどこかにあることを知っている。何かの拍子で、この一連の働きが止まり、緩んだタガの隙間から不思議なものが見えることがある。魔法が解け、ものとして取りまとめられていたしみは、再び染みへと解き放たれることがあるのだ。そうしたとき、往々にして人は「きれい」とか「うつくしい」という言葉を発する…
では、そうした不可思議な、世界の別のあり方へ近づくにはどうすれば良いのか。
素直に考えるなら、しみをものへと取りまとめている、その主体をなくしていけば良いであろう。実際美術の世界で、その主体を何か別のものに委ねたり、主体を大勢にすることで主体性を曖昧にしたりする手法が試みられた。
だが、それはうまくいったであろうか…わたしにはうまくいったとは思えない。ひとつには、そうして作られた絵画も、ひとたびそれが画廊や美術館の壁にかけられ、鑑賞の枠組みにはめ込まれるならば、人は再びそれを今ある世界のなにものかに取りまとめてしまうであろうからだ。人の取りまとめる力とはそれほど強いものだ。
もうひとつは、そもそも、世界の別のあり方は、ものが単なる染みへと解体された、そのバラバラの状態の中にはないであろうからだ。それは「取りまとめる―解き放つ」、そうしたはたらきの中でつかの間垣間見えるものなのである。
ものからしみへ
2020年4月7日を境に、人とのつながりは断たれ、時間の感覚はなくなっていった…
在宅勤務が採用され、職場へ出かけたり、同僚と打ち合わせたりすることがなくなった。週末に通っていたテニススクールが閉鎖された。酒席、会食の場を控えると、友人と会うことも無くなった。電車を乗り継いで都心に出かけることもなくなった…
そんな生活がひと月続き、4月が5月になった。ある日のこと、ウトウトとまどろんでいると…
…ふと目覚めると、ライトグリーンやペールイエローの染みが目の前に広がっていた。よく見るとそれはわたしが横になっていたリビングルームのまどで、そこからは植栽やら建物やらベランダの洗濯物が見えた。それらは午後、高くなった陽の光を照り返し、あるいは透かされて、鮮やかな色彩の矢となってわたしの身体を突き刺さした…
不思議なまどだった・・・それは普段、職場で同僚と打ち合わせているわたしの身体が「みて」いるまどではなく、日曜日にテニスへ出かけたり、友人と酒をたしなんだり、雑踏に交じって街を歩き回ったりするわたしの身体が「みて」いるまどでもない。それはあらゆる意味のつながりが緩んだところにつかの間、垣間見えた本来の「まど」だった…
そのまどは「みにしみ」た…きれいだと思った…このまどをわたしは知っている。これはわたしがずっと追いかけてきたものだ。わたしはそれを思い出した…これをこそ私は描かなければならない…今度こそ描かなければならない…