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「まどはひらかれとじられる」 2024.12.9mon.~12.14sat.
ギャラリイK

結果報告

今回は2点のエスキースを除き、全て最新作で臨みました。

テーマは、半数以上が近所を流れる引地川の水面や道端の風景で、あとは窓辺のピアノやカーテンといった室内風景です。

総計23点の展示は少し多かったかもしれませんが、何があるか分からないワクワク感は演出できたのではないかと思います。

内容については、特に以前から私の作品を見ていただいている方は、ここ何回かで随分感じが変わったという印象を持たれたようです。

作品をご覧いただいた方、ご購入いただいた方、どうもありがとうございました。

ウラサキミキオ
「まどはひらかれとじられる」─ コンセプトノート

Minamo 2024年 803×803mm 油彩 カンヴァス パネル

Minamo 2024年 803×803mm 油彩 カンヴァス パネル

まどはどこに開くのか・・・まどはどうやって開くのか・・・開いては閉じるまどのこちら側で、わたしたちはまどの向こう側にどうやって思いを馳せたら良いのか・・・?

宝に行きつくには

物理学者ジョージ・ガモフが「宇宙=1,2,3…無限大」という本の中で紹介した話。

ある若者が、とある無人島に眠る宝のありかを記した古文書を発見する。そこには・・・

「島には樫の木と松の木と絞首台がある。
宝に行きつくには、

  1. まず、絞首台から樫の木までまっすぐ歩き、樫の木まで行きついたら直角に右に曲がり、絞首台から樫の木までと同じ歩数だけ進んで杭を打つ。
  2. 再び絞首台まで戻ったら、今度は松の木まで歩き、松の木に行きついたら左に曲がり、同様に絞首台から松の木までと同じ歩数だけ進んで杭を打つ。
  3. 宝は第一の杭と第二の杭の中間点に埋めてある。」

若者は古文書を手に意気込んで島へ乗り込むのだが、いざ島に着いて見ると、そこには肝心の絞首台がない。さて、どうするか・・・出発点がわからないまま、若者はどうやったら宝に行きつくことができるのか・・・

まどの向こう側に行きつくには

この話は数学の話であるが、わたしは制作をしている自分の話として読んだ。

わたしたちは世界をガラス越しに見ている。ガラスは無色透明・・・一見そこには何もないように見えるので、わたしたちはガラスに映し出されているものが世界のありのままの姿だと思い込んでしまう。
だが、このガラス・・・じつはところどころにすき間が開いており、そのすき間からは別のなにかが見えるような気がする。それは何なのか・・・もしかしたら本当の世界・・・?世界の別の在り方・・・?
それを見極めようと目を凝らすと、次の瞬間、すき間は閉じられている。今のは目の錯覚・・・?すき間はほんとうにあったのか・・・?そう思い直してみるのだが、しばらくするとまた別のところにすき間が空いている・・・そんなことが繰り返し起こる・・・

このすき間をわたしは世界に開けられた「まど」と呼び、このまどを描き表すことで、世界の別のあり方へ行きつけるのではないかと考えた。

だが、ここでわたしははたと困り果ててしまう。
まどの向こうをどうやって表したら良いのか。まどの向こう側の世界は、わたしたちのものの見方の外側にあるのであり、まどのこちら側、つまりわたしたちの言葉では表せないのだ・・・言葉という確かな足掛かりを欠いたまま、ガラスの前でわたしは呆然と立ちすくんでいる・・・
「世界の別のあり方」・・・そのようなものがあるとすれば、それはまさに宝物であろう。では、その宝物にこの世界からどうやって行きつくことができるのだろうか・・・わたしは何に拠ったら良いのか・・・どう進んで行ったら良いのか・・・?

ガモフの答え

ガモフの答えはこうだ。
彼は複素数、つまり虚数を使って解けという。島全体を複素平面にするのだ。

  1. 松の木と樫の木を通る実数の数直線を引く。松の木は+1、樫の木は-1とし、松の木と樫の木の中間点は原点0とする。
  2. 数直線と直行して虚数軸を引く。
  3. そして絞首台の位置は分からないのだから、複素平面の任意の場所にΓとしておく。
  4. Γから樫の木までは-1-Γ。Γから松の木までは1-Γ。複素平面で反時計回りは虚数iを掛けること、時計回りは-iを掛けることであるから、樫の木から左に直角に曲がった点は-1+i+Γi、松の木から右に直角に曲がった点は1+i-Γiとなる。
  5. その中間点を求めるため、二つの点を足して2で割る。

すると・・・
不思議なことに最初に措定した虚構の地点を示す複素数は消え、虚数iだけが残る。つまり、絞首台は
どこにあるかは問題ではなくなるのだ。島のどこにいようと、そこから松の木と樫の木を目指して決
められたように歩いて杭を打てば、必ず虚数軸の+iの地点に行き当たるのである。

ガモフの問題が教えてくれること

この話は二つのヒントをわたしに与えてくれる。
ひとつ目は、問題に立ち向かうにはまず「実」の世界を整える必要があるということである。
ガモフは、樫の木を-1、松の木を+1、その中間点を0とした。これは自然界にある樫の木と松の木を、1や2、0や-1、√2や7分の2といった観念的なものと同じ数直線の上に置いたということだ。
強引な操作に見えるが、考えてみれば、目に見えるものとして存在しているかどうかの違いはあるものの、どちらも通りの良いものの見方で身の回りに組み立て直されているという意味では同列に語ることが可能なものなのだ。これで、そのあとに展開する計算の糸口が見いだせるのである。
二つ目は虚数のアイデアを導入したこと・・・
虚数・・・16世紀の数学者カルダノが二次方程式の答えを見出だすために無理矢理作り出した数である。カルダノ自身が言うように、詭弁であり実用の使い道はない。しかし、だからこそ答えのない問題に立ち向かうのに有用なのである。
わたしたちは直感的に「実数の世界」には、実数が取り逃がしているものがあることを知っている。
「宝物」があることを知っている。そして、それが何かを知るには、実数の数直線の外にあるものを用いなければならないのである。それがすなわち虚数iなのである。

ガモフの問題でいう、行きついた島は、わたしの問題では「目の前に見えているガラス」に相当する。
わたしも数直線を引く必要があるだろう。今、目の前に見えているガラスは、いろいろな時に、いろいろな場所で、いろいろな人が形作ってきたものの見方が継ぎ合わされ、積み重なってできている。
世界を、そうした複雑なものの結合物から、ある程度整理された単純なものへと捉えなおす作業は問題を分かりやすくするのに不可欠だ。
一方、宝はわたしにとっては「世界の別のあり方」・・・
わたしも自身の問題に虚数軸を持ち込み、ガラスを複素平面にすることにする。虚数を持ち込むことで、あるのかないのか、どこに現れるのか分からないまどの位置をガラスの上に措定することが可能になるのだ。

虚ということ

虚数のイメージがわたしの中で大きく浮上してくるきっかけになったのは、「まど」とともに長いあいだ、わたしが画について抱き続けてきた次のような考えにある。

  1. 画は壁に開かれたまど。画に施されるイリュージョンでひとは画の中へと入って行ける。
  2. だが、気が付くとひとは画の外に連れ出されている。
  3. 再び、ひとは画の中へ入って行く。
  4. 画の基底材は面であるはずなのだが、画はまどであり、奥があり、手前がある。ひとが画の前に立って経験するのは、奥と手前を絶えず行き来する運動である。

内でありながら同時に外であること・・・静止した平面でありながら同時に奥と手前とを行き来する3次元空間であるということは、実際の生活感覚ではありえないことであって、それをどう言葉にし、作品にし、人にわかってもらうかで、随分と悩み、今も悩んでいる。

そうしたパラドックスを数学の世界では√-1すなわちiという言語で成り立たせている。
制作で悩むわたしにとってのiとは「自然界のどこにも存在しない純粋な色」、「自然界ではありえない混色」のことである。
自然界にiを措定することにより、自然界と呼んでいる「実数」を改めて眺めることができる。虚数軸から見れば実数軸は虚数を時計回りに、あるいは反時計回りに90度回転させたものに過ぎない。
内と外、出発点はどちらでもよい。虚実の領域を往還することで宝物、つまり世界の別のあり方に巡り合えるのではないか。

鶴下絵三十六歌仙和歌巻

話が抽象的になってきたので、ここで、虚数軸と実数の数直線が整備され、その軸を巡って複素数が無限に動き回る素晴らしい実例を紹介する。ここでは、わたしのいうまどが繰り返し現れては消えるはずだ。

宗達と光悦の競作になる鶴下絵三十六歌仙和歌巻。
縦34cm、横14.6mにも及ぶ長大な料紙に縦横無尽にひかれた銀泥・・・そして随所に施された金泥・・・そこに濃淡、肥痩、実に表情豊かな墨の線が配される。それぞれが紙の上で絶妙な掛け合いを演じている・・・最初のまどは素材の競演だ。
やがて、まどは閉じられ、次のまどが開く・・・
銀泥はじつは鶴の群れであって、それらが紙に引かれるときのスピード、タッチがわたしたちの中にある鶴の記憶を呼び起こす・・・鶴は水辺で群れ、憩い、やがて哀し気な鳴き声とともに寒空を次々と飛翔していく・・・
墨書は銀泥の中で鶴の羽根の一部と化してしまったかのように、ぐるぐるととぐろを巻いていたかと思うと、突如として「柿」や「山」という記号となって画面から踊りだしてくる・・・少しすると、それは再び鶴のくちばしとなる・・・
こちらのまどはイリュージョンだ。
まどは再び閉じられる・・・そして・・・
吉祥のしるしである鶴が描かれ、豪奢な金銀が散りばめられた料紙には、墨で線が施されている・・・この線は字であるが、同時に言葉であり歌でもある。
紀貫之「しら露も 時雨もいたく もる山は した葉残らず 色づきにけり」・・・鶴の頭部に突き出た「し」の字は水の一滴となり、鶴の羽根は下草になる・・・群れて飛ぶ鶴と鶴の間に開くまど・・・そこから見えるのは守山の鮮やかな赤色なのである・・・
最後のまどは・・・言霊のまど・・・

世界にまどは開かれ閉じられている

開かれたまどの向こう側・・・わたしたちは遠く離れた山にいて白露の一滴となる・・・だが、ふと気が付くと、閉じられたまどのこちら側で、人に揉まれながらガラスケースを眺めている・・・
まどは開かれて、閉じられている・・・
わたしたちは今、まどの向こう側とこちら側に同時にいる。なんという不思議・・・この不思議さはどこから来るのだろう・・・
それは恐らくは「虚」・・・
あり得ないもの、使えないもの、存在しないもの、そうしたものを「実」と併せておくこと、同じテーブルの上で語ること・・・
世界に実数の数直線が引かれ、虚数軸が引かれる・・・虚が実になり、実が虚になり、世界はまわり出す・・・

硫化水銀、カドミウム、塩素化物フタロシアニンが顔料として物質界にある・・・キャンバスに絞り出され、ある文脈におかれることで、それらはバーミリオンやイエロー、グリーンといった色になる・・・さらに文脈は移る・・・バーミリオンは、自然界にある、やや黄味がかった太陽となり、イエローは、赤や緑がほんのりと混じったひまわりの花びらとなり、グリーンは、青が深くしみ込んだ枝豆のさやとなる・・・

「実」とは何なのか・・・

わたしたちが実像と呼んでいるものも、いろいろな時に、いろいろな場所で、わたしたちが複素平面の上を回転させてきた虚像の寄せ集めなのではないか・・・
もしかすると、虚像、さらに言うと、そもそも実像にはっきりとした位置などはないのであり、あるのは、虚と実を巡ってとどまることなくまわり続けるわれわれのものの見方だけなのかもしれない・・・

壁の声 2024年 530×727mm 油彩 カンヴァス

壁の声 2024年 530×727mm 油彩 カンヴァス

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2024.12.9mon.~12.14sat.

ウラサキ ミキオ Mikio Urasaki
「まどはひらかれとじられる」
11:30~18:30(sat.~17:00)

会場:ギャラリイK
〒104-0031 東京都中央区京橋3-9-7 京橋ポイントビル4F
Tel/Fax:03-3563-4578
Mail:galleryk@nifty.com
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